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古庄嘉門について2

 やがて御一新の政令がしかれ、 古庄嘉門は、河上彦斉、木村弦雄らと豊後鶴崎に派遣され、有終館をおこして国境の警修と青少年の訓育にあたったが、明治3年山口藩の大楽源太郎らの変が起こって、大楽らが遁れて鶴崎に身を譛めたごとから両者の関係をにらまれ、ついに 有終館は解散になり、彼らが熊本にひきあげてくると捕吏は彼等の家を襲い、河上、木村らは捕われの身となった。ただ一人嘉門は身を以てのがれたが、これは彼の妻のシカの気転によるものであった。彼の妻は木村弦雄の妹である。  嘉門はそれから阿蘇、四国をへて東京に入り勝海舟に身を寄せた。しかし詮議が厳しいので海舟は山岡鉄舟と協議し、海舟の手引きで静岡の山中に身をひそめた。しかしいつまでまっても時勢がかわるわけではなし、鉄舟のすすめもあって東京に出て自首し伝馬町の獄に入り、のち熊本の獄にうつされた。大楽事件のため河上彦斉は死刑になった。  明治7年2月、佐賀に江藤新平、島義勇らが兵をあげた。大久保利通はその鎮圧のため西下したが、この時大久保は入獄中の嘉門を出して一働きさせようと佐賀によびよせたが彼が佐賀についた時はもう乱は鎮まった後であった。彼はそれから司法省に出るようになり、ついで大阪上等裁判所判事になった。しかしそれもツカのま、明治4年におこった広沢真臣暗殺の疑いで、明治11年のある朝、裁判所へ出勤の途中に彼は捕えられ、そのまま大審院の取調をうける身となって3年の未決監生活をおくった。                                                                                                                    豊水

徳富蘇峰について

 前回の話の続きです、徳富蘇峰が同志社在籍の頃、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退しました。 それからは、郷里の熊本相愛社に入り自由民権運動に参加を致しました。 この頃、彼は、自由思想を学び平民主義の思想を形成してゆく平等主義、平和主義を唱えるようになってゆきます。 特に、平民主義においては、社会の実業家の力を持って日本の近代化を達成、実現を目指してゆくという思想であります。 これが、明治14年頃ですが、この時代に彼は、大江義塾に鹿児島県の宮之城からも将来の日本を考えている若き青年たちを塾生にしておりました。 この時代背景には明治10年に西南戦争終結後の鹿児島県に於いての武力を用いて社会を変えるのでは無く 言論に於いて社会を変えるという自由民権運動が盛んになり始めていた時代でもあります。 次回に続きます。 豊水

About Soho Tokutomi

A continuation of the previous story, when Soho Tokutomi was enrolled at Doshisha, he was withdrawn from a student disturbance and dropped out Doshisha English School just before graduation. After that, he had joined Kumamoto Correspondence Company in my hometown and participated in the Free Civil Rights Movement. In particular, in the case of common-wealth, it is an idea that we will achieve the modernization of Japan with the power of a social businessman, aiming at realization. This is about Meiji 14, but in this era , they whom were young student, were also considering future Japan from Miyanojo in Kagoshima Prefecture to Ohe Gijyuku, they were a junior high school student. In the background of the era of the Meiji era in the Kagoshima prefecture after the end of the war Southwest not to change the society by using force It is a time when the free civil rights movement to change society in the speech was beginning to flourish. It will continue to the next. Toyomizu

Happy new year.

I would like to describe something different from the contents of my blog so far from this year It is related to Mr. Soho Tokutomi who survived From January 25th, 3rd year of Bunkyu in the Edo era until November 2nd, Showa 32. He is such a historian and thinker as it appears in the Guinness Book of Guides. Mr. Tokutomi is a person who gathered literature at the time and wrote books. Mr. Tokutomi goes back to the history of Japan, to know Japan at the end of Mr.Nobunaga Oda period, to know Meiji period ,at Southwest War. , 100 volumes of books with hundreds of pages up written. It is our first time in Japanese modern history. There are so many books which are written outside, but the representative thing is the history of the Japanese citizens of the early modern era,and Shisho, Gokyo, Saden, Shiki, , History of the old china, Japanese History, Japanese history by the private sector, Tang-song bajia-wen, Tōng jiàn gāng mù,etc. That thing is being respected by past

明けましておめでとうございます。

 今年からは、今までのブログの内容とは違った事を記述していきたいと思います。 それは、江戸時代の文久3年1月25日より昭和32年11月2日まで生存されてきた、徳富蘇峰氏に関 する事柄です。 概して、ギネスブックに載った程の歴史家であり、思想家です。 徳富氏は、其の当時の文献を集めて、書籍を書かれた人です。 徳富氏は、日本の歴史にさかのぼる事、幕末の日本を知る為には、江戸時代、江戸時代を知る為 には、織田信長までを数百ページにわたる書籍を100巻書かれました。 日本の近世史において、初めての人物です。 外にも書籍を書かれていますが、代表的なものは、近世日本国民史があります。 四書、五経、、左伝、、史記、歴史網鑑、国史略、日本外史、八家文、通鑑網目などを通読しており ます。 これは、過去、現在の作家達には、丁重がられております、 徳富氏の書かれた書籍を題材としているほどの書籍であります。 徳富氏は、維新の十傑の横井小南に師事した人物です。 又、熊本洋学校に在籍をいたし、後の、熊本バンドにも参加をしております。 それから、同志社大学に進み、自由民権運動にも参加をいたしまして、 実家の熊本に戻り、大江義塾において、英学、歴史、政治学、経済学の講義をいたし 青年の啓蒙に努めた人物です。 今日は、これぐらいにして、次回も徳富氏に関する事柄を題材にして行きます。 豊水

Difference between folk craft and crafts

Handicraft items are the tools that were used in popular terms in the history and culture of each of Japan, It was used as a tool in everyday life and was courteous. It can be said that the history was made by Japanese people without borrowing the power of other countries. Representatively, when you eat,drink,use,rice, a snack, a tea bowl, a bridge, a cup of tea, so as not to get wet by the rain made, there are many items, if you count, mino, umbrella. It symbolizes Japanese culture. Also, in craftworks, it is built using unique techniques to build its folk crafts, It can be said that made full use of craftsmanship. Those who made them are called craftsmen, and among them, they are called traditional craftsmen, traditional art items there are many things, too. It can be said that it supports Japanese culture like folk craft. Speaking familiarly, craftsmen who make the original of the kimono pattern, craftworkers who dye them and their craftsmen we call it a craft

民芸品と工芸品の違い

民芸品とは、日本のそれぞれの歴史、文化の中で大衆的に用いられた用具の事であり 日常生活における道具として使われ、丁重がられたものです。 その歴史は、日本人が他国の力を借りずに日本人の手により造られたものといえます。 代表的に言えば、ご飯を食べるときに使う、おひつ、茶碗、橋、湯呑茶碗、雨に濡れぬように 作られた、蓑、傘、数えれば多々あります。日本文化を象徴するものです。 又、工芸品においては、その民芸品を造るにあたり 独自の技巧を用いて造られ、 職人技を駆使したものといえます。 それらを作った人を工芸師と呼び、なかには、伝統的工芸師、伝統的芸術品と呼称される ものも、また、多々あります。 民芸品と同じように日本文化を支えるものといえます。 身近でいえば、着物の柄の原版をつくる職人、それらを染める職人、それぞれの職人を 工芸師と呼んでいます。 このひとつを作る工程は並々ならぬ技術を駆使して、着物の反物を作ってています。 これは、着物以外にも、多々あり、それぞれの中で伝統工芸師がおられるとうこと です。 豊水